豊中ロータリークラブ教育フォーラム「生と死を考える ―人生をいかに生きるのが良いのか―」

豊中ロータリークラブ教育フォーラム

「生と死を考える ―人生をいかに生きるのが良いのか―」

畑田耕一、米田真

 

本文は、平成26年1月25日(土)13:30~17:00に豊中市ホテルアイボリー「榧の間」で豊中ロータリークラブ青少年奉仕活動の一つとして行った上記フォーラムの報告である。このフォーラムは参加者の年齢が15~86歳、国籍が日本、中国、イラン、オランダ、ドイツ、ブラジルの6か国、参加者の専門分野も多岐にわたり、生と死の核心に触れる討論を行うことが出来た。参加者総数はロータリアン15名を含めて40名であった。以下にその討論の内容を簡単に記す。詳細な報告は豊中ロータリークラブホームページに発表の予定である。

 

人の誕生は産みの苦しみを超えて生産の安堵感に続く喜びに終わる。産んで貰い育てられた子供はやがて死を意識し自覚して生きるようになり、ついには死を迎える。

人の死の瞬間に立ち会うのは、多くの場合医者であり、医者は医学的に死を宣言すればことは終わる。最近は臓器移植という新しい技術の進歩に伴い、心臓死の他に脳死の判断が必要になる場合が生じてきた。ただ、脳死を的確に判断することはかなり困難で、医者を悩ませることが多い。また、その線に沿って尊厳死や平穏死という概念が社会的に認識されるようになってきている。

死を恐れない人はいないが、死を自覚するのは死に対する恐怖感を持つことではなく、我々の命は与えられた命であることを自覚することである。寺の僧侶の仕事は葬式や法事など死んだ人のために働くことではない。僧侶の重要な使命は、今、人は何をすべきか、何を喜ぶべきか、何に感謝すべきかを説くことであり、そしてまた、人生をしっかりと全うした人を次の世界へ確実に送り届けることである。

キリスト教には時間の概念が二つある。一つはクロノスで人間が生きていくうえで必要な便宜上の時間の概念、他の一つはカイロスという神が司る時間の概念である。肉体的な死を乗り越えた次の世界、すなわち天国の時間はカイロスに支配されている。天国は牧師自身にも経験がなく、あえて言えば、希望の世界、期待の世界である。人の死は悲しいものであり、親しい人であればあるほど悲しくてつらい。

しかし、死は決して終わりではない。悲しみやつらさだけで終わるのではなく、次に与えられるものがきっとあるという期待と希望につながるものである。

哲学の分野では死は生にとって本質的で不可避なものであり、死を自覚しないで日々の生活を生きるのと死を自覚して生きるのとは、生き方のうえで決定的に異なると考える。死を自覚しない生から死を自覚して生きる生への転換は人生における重要な生まれ変わりということもできる。神や仏を信じない生き方から信じる生き方への転換とも考えられ、ここに哲学と宗教との接点があるという解釈もできる。

大江健三郎氏の御子息光さんが、ある時おばあさんに「元気を出して死んでいってください」と言ったと伝え聞く。この言葉の背景には上記の生の転換の意味が込められているように思われる。

生涯に多くの子供を失い、真宗大谷派に深い造詣を持っていた哲学者西田幾多郎は「哲学の動機は 驚きではなくして、深い人生の悲哀でなければならない」と述べている。この悲しみから逃れたい、救われたいという思いには、神であれ仏であれ対応してくれるというのが西田の悲痛な叫びであったのかもしれない。ここにも哲学と宗教の接点を見出すことが出来る。

生命機能という言葉があるように、身体はその機能を発揮して初めて命を持った人となる。人が死ねば機能は消滅し、後には何も残らない。特定の個人の死は現実の世界を変えるものではない。誰かが死んでも世界はそのまま残る。死をこのように考える人の頭にも、死後の自分は何処に行くのだろうか、天国なのか地獄なのか、という考えが過ることはあろう。

キリスト教では死ねば天国に行くことになっていて、地獄という考え方はキリスト教にはない。Hellという英語は多分人間が作り出した恐れや幻想の一つである。現生を生きていること自体がすでに地獄である、今を生きているその生き方の中で既に裁きと制裁を受けていて、死ねば必ず天国に行ける、あの世に地獄はないという考え方である。

イスラム教では死後に審判があって天国に行くか地獄に行くかが決まる。現生で犯した罪の重さによって地獄にいる期間が決まり、その期間が過ぎれば天国に移ることが出来る。このことはコーランに書かれている。仏教にもこれに似た考え方があり、いわゆる輪廻転生で表現される生まれ変わりの世界は現生での生き方によって左右されると考えられている。

 このように死後の世界についての考え方は、宗教間に共通点はあるものの、宗教によってかなり異なる部分がある。また、同じ宗教でも宗派によって異なる場合があり、キリスト教徒の全てが死後は必ず天国に行けると思っているわけではない。

戒律による制約の強さも宗教によってかなり異なる。例えば、イスラム国家で神を信じないことを公表する場合は死を覚悟せねばなるまい。ただ、世界の一般的傾向としては、特定の宗教の信奉を強制されたり、宗教的戒律により現世での生活が著しく阻害されたりすることは無くなりつつある方向に進んでいることは間違いない。その宗教の哲学・根本原理が自分に合った宗教を選べる時代に入りつつあるといってよいのではなかろうか。

今の日本の若者は、ここまでに述べてきたような、生と死についての語り合いの機会をあまり持たないのが現状である。学校教育、特に中学校や高校の道徳や総合的な学習の時間に生と死について語り合い学び合う授業を取り入れるべき、という声は日増しに高まっている。それは死を自覚して生きる生への転換を促す動機となるとともに、1日に約100人が自殺するという我が国の憂うべき現状の打開にも繋がるはずである。

学校での生と死に関する授業を通して、生と死は表裏一体であることを理解させ、いつやってくるかわからない死を自覚して毎日をしっかりと生きることが重要である。このことを生徒に認識させることは比較的容易であることは、西宮高校の生徒たちの発言を聞いていてよく分かった。「人の死は単にその人一人がこの世界から消えるのではなく、その人と生前関わりがあった多くの人のその後の生活に影響を与えるとともに、その人たちの心の中に記憶として残り、そしてまたその人たちを通して後世に引き継がれていくものであると思う」という高校生の発言は、彼らにとって必要なのは生と死について語り合う意欲よりも切っ掛けであることを物語っている。「自分が社会にとって非常に有意義と考える仕事を行っている途中で亡くなった時、その仕事を完結するために現世に帰ってくることが出来るか」という質問には宗教家は「否」と応えざるを得ない。このような質問に対して、筆者の一人畑田は「現世の君を見ていた誰かがきっと君の代わりをしてくれるよ。君は天国で安らかに過ごしなさい」と応えることにしている。「80歳まで一生懸命生きて、疲れ果てて何もする気が無くなったらどうするべきか」という質問に対する牧師さんの答えは「何もできなくてもよいから、ひたすら祈りなさい。祈りは自分のためだけでなく、人のためにも祈るのです。祈りは宗教的な奉仕活動です」であった。その高校生の「その時は力が抜けていて、祈るのも面倒くさいかもしれない」というさらなる発言には、牧師は「今、高校1年生のあなたが今の考えのまま80歳になるとはとても思えないのです。私はあなたの将来について極めて楽観的です」と静かに諭された。人間80歳になれば、15歳ぐらいの時に比べて判断の基準も変わる、見識が高まるともいえる。味わい深い言葉であった。

なお、西宮高校では生と死を考える授業は設けられていないが、各教員がその専門とは無関係に、授業の中で折に触れて教員自身の生き方、生と死、人間社会の精神性などについて語り、命は自分一人だけのものではなく家族、教員、友人などと深くつながるものなので、一人でも多くの人と関わって社会に貢献する力を養うよう伝えているとのことであった。このような内容の授業が全ての中学校、高等学校で行われるようになれば、各研究室に1~2人の大学入学後に目標を失なった自殺予備軍がいるというような事態は避けられるのではなかろうか。

人の死は、先にも述べたように、身体的機能とともに精神的機能の消失を意味する。したがって、人の亡骸は心・魂の抜けた物体であって、死んだ人の魂はこの世には存在しないというのは、科学的にも宗教的にも是認されている考え方である。死体を丁寧に扱うのは、そこに魂が宿っているからではなく、道徳的規範に基づく行動である。ただ、先にも述べたように、当人が消えてもその人が生きたことについての記憶は周辺の人達の中に残る。これを死んだ人の魂ということは許されてよいのではなかろうか。小さいときに母を失った高校生の「玄関に立っている人に母の幻影を見たり、もうこの世にいない母の声を聴いたりして、もう居ない人がまだ生きていると思うことがある」という発言は、彼女の心の片隅にいる母を想起させる。そして、彼女はいずれ天国で愛する母と再会する、それが神を信じるということではなかろうか、と筆者は思う。

人の心に残る記憶としての魂という考え方は自然科学者にも理解されやすい概念であると思う。軌道上の電子を放射線でたたき出しても、そこに電子が存在したという履歴は残るというのに似ているともいえる。いずれにしても、人の記憶のメカニズムについての自然科学的研究が進めば心に残る魂についての科学的解釈もより明瞭になってくるものと思われる。最近、強い精神的刺激でヒストンタンパクの修飾が起こり、DNAの転写にある種の影響が出る場合があるという考え方が浮上しており、心に宿る他人の魂についても科学的メスが入れられる日が近いかもしれない。また、人間の機能にかなり近い機能を持つロボットが作られるようになってきている。これらを御飯の要らない生命体と理解するのであれば、いずれはロボットの魂とは何かを考えることが科学技術分野の課題の一つになる日が来るかもしれない。

このフォーラムの一つの目標は、生と死を考えることを通して人生を如何に生きるかを考えることであったが、生と死の本質を考えることの面白さに魅かれて、気がついた時には人生の生き方について話し合う時間は殆ど無くなっていた。会の終わりに、「死を自覚して生きるにしても、若い時はともかく、老人になってからは、いつ死ぬかわからないと考えて心細い気持ちで生きるよりは、まだあと10~20年は大丈夫だと考えて、楽しく元気に働いて社会に奉仕し価値ある貢献をする方が賢明な生き方ではなかろうか」という興味深い発言があった。

人生を如何に生きるかを考える機会は別に設けることとして、その時には、個人の生き方をはじめとして、生と死にかかわるいろいろなこと、生と死についての学校教育、悲嘆教育(anticipatory grief education)、終末医療、緩和ケア病棟(ホスピス、ビハーラ)、尊厳死、臓器移植、体外受精、産み分け、自分と家族の将来を考える機会にもなる生命保険への加入、自殺者の増加の問題などの項目について話し合いたいと思っている。