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市立西宮高校での出前授業「聞いて見て触るおもしろ化学」 豊中RC 畑田耕一

XYZ_8855-2???2014年4月23日市立西宮高校理数科1年生に物質の状態・性質・機能を分子の立場から考える授業をしました。お話しは、物質を作っている目に見えない小さな粒子である分子の概念から始めて、分子の大きさ(分子量)が大きくなるにつれて、それが形作っている物質の状態・性質はどう変わるのかを、炭素と水素から出来ている分子を例としてメタンから流動パラフィン、固形パラフィン、ポリエチレン、超高分子量ポリエチレンなどの実物を見せながら説明し、分子量が大きくなると物質の強度が大きくなることと、その理由は長い分子の絡み合いによるものであることを生徒たちに納得してもらいました。超高分子ポリエチレンで作ったポリエチレンの紐の引張り強さには皆目を見張りました。

 このようにして分子の概念をきっちりと説明し、物質は多くの分子が集まって出来ていることを話した上で、50mlの水と50mlのエタノールを混ぜると100mlにはならず96mlになることを実験で確かめさせると、生徒はただ驚くだけではなく、異分子の混合はどのように起こっているのかを自分で考えることが出来るようになります。中学時代に習った密度の大小が分子の質量だけではなく、その集まり方にも影響されていることも自分で容易に思いつきます。

 同じ水の分子で出来ている物質でも気体の水蒸気、液体の水、固体の氷の三つの状態があります。この3態は水分子の集まり方だけでなく分子の運動の仕方の影響も受けています。さらに、水の3態の性質変化が水分子の運動性だけではなく水分子の形、すなわち二つの水素原子が一つの酸素原子に結合した折れ曲がり構造の分子であることも教えれば、固体の氷が液体の水に浮くこと、すなわち水の密度が4℃で最高になり、固体の氷が液体の水に浮く理由も生徒から引き出すことが出来ました。ここで、水が氷になる変化は「温度が下がって水の運動性が落ちて起こる」のではなくて、「水の運動性が落ちたから温度が下がる」のだという温度の本質を教えることを話すのを忘れないようにしております。

 このようにして分子の本質を生徒に質問して意見を聞き、それに対してこちらも意見を言ったり別の質問をしたりという、所謂「双方向的」に授業を行うと、生徒は次第に分子のことだけではなく、物事の本質を理解しようと努める習慣を身に付けていくのが分かります。2時間の間に生徒が随分変わるのです。このような習慣を身に付けた生徒に対して、ゴムの性質は、ゴム分子の移動に関わる運動性ではなく、ゴムという特殊な構造の高分子の局所の運動性によって決まっていることを生徒に理解してもらうのはそんなに難しいことではなくなります。高温で柔らかくなったポリマーをある形にしてそのままの形で冷やしたものを、再び高温にすると最初の形に戻るという形状記憶ポリマーの実験も単に面白いだけの手品ではなくなるし、錘をつるしたゴム紐に熱湯をかけると伸びるか縮むかという難しい質問にもかなりの生徒が正しい答えを想定できて、その後の実験で自分の考えの正しさを感動と喜びをもって確かめることが出来ました。このような授業では生徒は何を聞いてもすぐに応えてくれます。それが私にも楽しいのです。私にとっても感動と喜びに満ちた2時間でした。

少子化問題とその解決  豊中RC 畑田耕一 関口煜 畑田耕司 北村公一 関谷洋子

高齢社会の問題の根源は高齢者の数の増加であるが、わが国では同時に起こっている少子化、すなわち若者の減少が一層深刻な問題である。老人の頑張りにはいくら定年を延長しても限界があるので、若者の減少は国力がどんどん落ちていくことを意味している。世界のために大きな貢献をする力を持っている筈の日本が若者の数を減らしていくのは、自国にとっても世界にとっても好ましいことではない。少子化の原因である出生率の低下は、1970年以降に大抵の先進諸国に見られるようになったが、日本では特に少子化の速度が際立って大きく、地球上で最も早く社会問題化している。この困難な問題を乗り切って、将来の日本を健全に維持してゆくためにも、また遅かれ早かれこれに取り組む必要が出てくるアジア諸国をはじめとする他の国々に模範を示すためにも、日本はこの問題に真剣に取り組まねばならない。少子化問題の解決は、日本が自国のため、また世界のために果たさねばならない極めて重要な課題の一つであると考えてこの論文を執筆しました。詳細は下記のURLをクリックしてお読みください。
http://culture-h.jp/hatadake-katsuyo/ShoshikamondaiToSonoKaiketu.pdf

豊中ロータリークラブ教育フォーラム「生と死を考える ―人生をいかに生きるのが良いのか―」

豊中ロータリークラブ教育フォーラム

「生と死を考える ―人生をいかに生きるのが良いのか―」

畑田耕一、米田真

 

本文は、平成26年1月25日(土)13:30~17:00に豊中市ホテルアイボリー「榧の間」で豊中ロータリークラブ青少年奉仕活動の一つとして行った上記フォーラムの報告である。このフォーラムは参加者の年齢が15~86歳、国籍が日本、中国、イラン、オランダ、ドイツ、ブラジルの6か国、参加者の専門分野も多岐にわたり、生と死の核心に触れる討論を行うことが出来た。参加者総数はロータリアン15名を含めて40名であった。以下にその討論の内容を簡単に記す。詳細な報告は豊中ロータリークラブホームページに発表の予定である。

 

人の誕生は産みの苦しみを超えて生産の安堵感に続く喜びに終わる。産んで貰い育てられた子供はやがて死を意識し自覚して生きるようになり、ついには死を迎える。

人の死の瞬間に立ち会うのは、多くの場合医者であり、医者は医学的に死を宣言すればことは終わる。最近は臓器移植という新しい技術の進歩に伴い、心臓死の他に脳死の判断が必要になる場合が生じてきた。ただ、脳死を的確に判断することはかなり困難で、医者を悩ませることが多い。また、その線に沿って尊厳死や平穏死という概念が社会的に認識されるようになってきている。

死を恐れない人はいないが、死を自覚するのは死に対する恐怖感を持つことではなく、我々の命は与えられた命であることを自覚することである。寺の僧侶の仕事は葬式や法事など死んだ人のために働くことではない。僧侶の重要な使命は、今、人は何をすべきか、何を喜ぶべきか、何に感謝すべきかを説くことであり、そしてまた、人生をしっかりと全うした人を次の世界へ確実に送り届けることである。

キリスト教には時間の概念が二つある。一つはクロノスで人間が生きていくうえで必要な便宜上の時間の概念、他の一つはカイロスという神が司る時間の概念である。肉体的な死を乗り越えた次の世界、すなわち天国の時間はカイロスに支配されている。天国は牧師自身にも経験がなく、あえて言えば、希望の世界、期待の世界である。人の死は悲しいものであり、親しい人であればあるほど悲しくてつらい。

しかし、死は決して終わりではない。悲しみやつらさだけで終わるのではなく、次に与えられるものがきっとあるという期待と希望につながるものである。

哲学の分野では死は生にとって本質的で不可避なものであり、死を自覚しないで日々の生活を生きるのと死を自覚して生きるのとは、生き方のうえで決定的に異なると考える。死を自覚しない生から死を自覚して生きる生への転換は人生における重要な生まれ変わりということもできる。神や仏を信じない生き方から信じる生き方への転換とも考えられ、ここに哲学と宗教との接点があるという解釈もできる。

大江健三郎氏の御子息光さんが、ある時おばあさんに「元気を出して死んでいってください」と言ったと伝え聞く。この言葉の背景には上記の生の転換の意味が込められているように思われる。

生涯に多くの子供を失い、真宗大谷派に深い造詣を持っていた哲学者西田幾多郎は「哲学の動機は 驚きではなくして、深い人生の悲哀でなければならない」と述べている。この悲しみから逃れたい、救われたいという思いには、神であれ仏であれ対応してくれるというのが西田の悲痛な叫びであったのかもしれない。ここにも哲学と宗教の接点を見出すことが出来る。

生命機能という言葉があるように、身体はその機能を発揮して初めて命を持った人となる。人が死ねば機能は消滅し、後には何も残らない。特定の個人の死は現実の世界を変えるものではない。誰かが死んでも世界はそのまま残る。死をこのように考える人の頭にも、死後の自分は何処に行くのだろうか、天国なのか地獄なのか、という考えが過ることはあろう。

キリスト教では死ねば天国に行くことになっていて、地獄という考え方はキリスト教にはない。Hellという英語は多分人間が作り出した恐れや幻想の一つである。現生を生きていること自体がすでに地獄である、今を生きているその生き方の中で既に裁きと制裁を受けていて、死ねば必ず天国に行ける、あの世に地獄はないという考え方である。

イスラム教では死後に審判があって天国に行くか地獄に行くかが決まる。現生で犯した罪の重さによって地獄にいる期間が決まり、その期間が過ぎれば天国に移ることが出来る。このことはコーランに書かれている。仏教にもこれに似た考え方があり、いわゆる輪廻転生で表現される生まれ変わりの世界は現生での生き方によって左右されると考えられている。

 このように死後の世界についての考え方は、宗教間に共通点はあるものの、宗教によってかなり異なる部分がある。また、同じ宗教でも宗派によって異なる場合があり、キリスト教徒の全てが死後は必ず天国に行けると思っているわけではない。

戒律による制約の強さも宗教によってかなり異なる。例えば、イスラム国家で神を信じないことを公表する場合は死を覚悟せねばなるまい。ただ、世界の一般的傾向としては、特定の宗教の信奉を強制されたり、宗教的戒律により現世での生活が著しく阻害されたりすることは無くなりつつある方向に進んでいることは間違いない。その宗教の哲学・根本原理が自分に合った宗教を選べる時代に入りつつあるといってよいのではなかろうか。

今の日本の若者は、ここまでに述べてきたような、生と死についての語り合いの機会をあまり持たないのが現状である。学校教育、特に中学校や高校の道徳や総合的な学習の時間に生と死について語り合い学び合う授業を取り入れるべき、という声は日増しに高まっている。それは死を自覚して生きる生への転換を促す動機となるとともに、1日に約100人が自殺するという我が国の憂うべき現状の打開にも繋がるはずである。

学校での生と死に関する授業を通して、生と死は表裏一体であることを理解させ、いつやってくるかわからない死を自覚して毎日をしっかりと生きることが重要である。このことを生徒に認識させることは比較的容易であることは、西宮高校の生徒たちの発言を聞いていてよく分かった。「人の死は単にその人一人がこの世界から消えるのではなく、その人と生前関わりがあった多くの人のその後の生活に影響を与えるとともに、その人たちの心の中に記憶として残り、そしてまたその人たちを通して後世に引き継がれていくものであると思う」という高校生の発言は、彼らにとって必要なのは生と死について語り合う意欲よりも切っ掛けであることを物語っている。「自分が社会にとって非常に有意義と考える仕事を行っている途中で亡くなった時、その仕事を完結するために現世に帰ってくることが出来るか」という質問には宗教家は「否」と応えざるを得ない。このような質問に対して、筆者の一人畑田は「現世の君を見ていた誰かがきっと君の代わりをしてくれるよ。君は天国で安らかに過ごしなさい」と応えることにしている。「80歳まで一生懸命生きて、疲れ果てて何もする気が無くなったらどうするべきか」という質問に対する牧師さんの答えは「何もできなくてもよいから、ひたすら祈りなさい。祈りは自分のためだけでなく、人のためにも祈るのです。祈りは宗教的な奉仕活動です」であった。その高校生の「その時は力が抜けていて、祈るのも面倒くさいかもしれない」というさらなる発言には、牧師は「今、高校1年生のあなたが今の考えのまま80歳になるとはとても思えないのです。私はあなたの将来について極めて楽観的です」と静かに諭された。人間80歳になれば、15歳ぐらいの時に比べて判断の基準も変わる、見識が高まるともいえる。味わい深い言葉であった。

なお、西宮高校では生と死を考える授業は設けられていないが、各教員がその専門とは無関係に、授業の中で折に触れて教員自身の生き方、生と死、人間社会の精神性などについて語り、命は自分一人だけのものではなく家族、教員、友人などと深くつながるものなので、一人でも多くの人と関わって社会に貢献する力を養うよう伝えているとのことであった。このような内容の授業が全ての中学校、高等学校で行われるようになれば、各研究室に1~2人の大学入学後に目標を失なった自殺予備軍がいるというような事態は避けられるのではなかろうか。

人の死は、先にも述べたように、身体的機能とともに精神的機能の消失を意味する。したがって、人の亡骸は心・魂の抜けた物体であって、死んだ人の魂はこの世には存在しないというのは、科学的にも宗教的にも是認されている考え方である。死体を丁寧に扱うのは、そこに魂が宿っているからではなく、道徳的規範に基づく行動である。ただ、先にも述べたように、当人が消えてもその人が生きたことについての記憶は周辺の人達の中に残る。これを死んだ人の魂ということは許されてよいのではなかろうか。小さいときに母を失った高校生の「玄関に立っている人に母の幻影を見たり、もうこの世にいない母の声を聴いたりして、もう居ない人がまだ生きていると思うことがある」という発言は、彼女の心の片隅にいる母を想起させる。そして、彼女はいずれ天国で愛する母と再会する、それが神を信じるということではなかろうか、と筆者は思う。

人の心に残る記憶としての魂という考え方は自然科学者にも理解されやすい概念であると思う。軌道上の電子を放射線でたたき出しても、そこに電子が存在したという履歴は残るというのに似ているともいえる。いずれにしても、人の記憶のメカニズムについての自然科学的研究が進めば心に残る魂についての科学的解釈もより明瞭になってくるものと思われる。最近、強い精神的刺激でヒストンタンパクの修飾が起こり、DNAの転写にある種の影響が出る場合があるという考え方が浮上しており、心に宿る他人の魂についても科学的メスが入れられる日が近いかもしれない。また、人間の機能にかなり近い機能を持つロボットが作られるようになってきている。これらを御飯の要らない生命体と理解するのであれば、いずれはロボットの魂とは何かを考えることが科学技術分野の課題の一つになる日が来るかもしれない。

このフォーラムの一つの目標は、生と死を考えることを通して人生を如何に生きるかを考えることであったが、生と死の本質を考えることの面白さに魅かれて、気がついた時には人生の生き方について話し合う時間は殆ど無くなっていた。会の終わりに、「死を自覚して生きるにしても、若い時はともかく、老人になってからは、いつ死ぬかわからないと考えて心細い気持ちで生きるよりは、まだあと10~20年は大丈夫だと考えて、楽しく元気に働いて社会に奉仕し価値ある貢献をする方が賢明な生き方ではなかろうか」という興味深い発言があった。

人生を如何に生きるかを考える機会は別に設けることとして、その時には、個人の生き方をはじめとして、生と死にかかわるいろいろなこと、生と死についての学校教育、悲嘆教育(anticipatory grief education)、終末医療、緩和ケア病棟(ホスピス、ビハーラ)、尊厳死、臓器移植、体外受精、産み分け、自分と家族の将来を考える機会にもなる生命保険への加入、自殺者の増加の問題などの項目について話し合いたいと思っている。

豊中ロータリークラブの出前授業と職場体験学習

小学校での高分子科学の出前授業

小学校での高分子科学の出前授業

豊中ロータリークラブ(RC)では、1999年2月に海外からの留学生、留学経験のある日本の青年とロータリークラブ会員が集まって、青少年交換フォーラムを始めました。その折の話題は、日常生活における文化、習慣の違いから日本の教育問題にまで及びました。その後、フォーラムでの話題は次第に教育関係のものが多くなり、現在は教育フォーラムと名称を変えて、留学生を含む若者とロータリアンが教育問題を語り合う場となっています。

2001年のフォーラム「世界の教育・日本の教育」の終了後、議論ばかりでなくその結果を踏まえた教育関係の実践活動をしてはという声が出て、当時その必要性が叫ばれていた初等・中等教育への出前授業を、豊中市内の小学校、中学校を中心に、豊中市教育委員会の支援を得て始めることになりました。このように、豊中RCの出前授業は教育フォーラムの実績と経験の上に立って発足したもので、理論と実践が車の両輪のごとくに機能しあうロータリーの奉仕の理想に叶った奉仕活動の一つです。2001年~2010年の間に小学校121校、中学校94校、高等学校7校で出前授業を行ってきました。

本年度は高校2校、中学校9校、小学校6校において、当クラブ会員6名、外部講師2名が担当して、計24回の出前授業を行いました。内容は、例年通り、自然、人文、社会科学から芸術・芸能にいたる極めて多彩なものでしたが、中でも産婦人科医による「思春期のケアー(避妊を中心に)」と「さわってみよう!能の世界!」は希望が多く、それぞれ6つの中学校と5つの小・中学校で授業を行いました。また、高等学校での四つのテスト(※)の話を含めた「科学・道徳・音楽・自然のつながり」も好評でした。この報告は、「高等学校での双方向授業の試み」として、インターネット上でご覧いただけます。

http://culture-h.jp/hatadake-katsuyo/ed-sohhokoh-jyugyo.pdf

また、文部科学省の初等・中等教育におけるキャリア教育推進の取り組みに呼応して、豊中市立中学校2年生の生徒を会員の経営または所属するホテル、スポーツジム、市立病院、お寺などに3~5名程度を職場体験学習の実習生として受け入れています。今後、職場体験学習を出前授業と組み合わせて、両者の教育効果を上げることを考えています。

※四つのテスト
ロータリークラブ会員の行動の規準。会員は以下の規準に照らして行動することが求められる。
1.真実かどうか?
2.みんなに公平か?
3.好意と友情を深めるか?
4.みんなのためになるかどうか?

参考:豊中ロータリークラブの出前授業についての報告
http://www.sun-inet.or.jp/~jtrc2660/DemaeLesson.pdf